プロフィール

こんにちは!
ママ動画クリエイターの家田真理です。

動画のお仕事を始めて約2年が過ぎ、
だんだん、お仕事も安定してきました。

ネットビジネスを始めてここまで、ぜーんぜん順風満帆ではなかった私ですが、
やっと、動画で収入を得られるようになって、

かつての私のような迷える初心者の方の、スキルアップやお仕事獲得のお手伝いができるようになりました。

今回は、こんな私がどんなふうに大人になって、今、動画クリエイターとして活動するようになったか、私の信念も織り交ぜてお伝えします。

平凡に不自由なく過ごした子ども時代

私の両親は大阪出身。
父は大学卒業後、地元を離れて、神奈川県のガス器具メーカーで設計の仕事をするサラリーマンでした。

母は大学卒業後、母校の大学で日本語講師(外国人の方に日本語を教える)として働いた後、父とお見合い結婚して、大阪から神奈川県に移ってきました。

母は3歳離れた妹と私を育てながら、自宅で近所の子どもや中高生に英語を教えていました。
外で働いていなかったので、私も妹もかぎっ子の経験はなく、

私がずっと、家で仕事をしたいと思っていたのも、自宅で仕事をしていた、母の影響もあるのではないかと思います。

人が好くて、明るい母のおかげで、明るく温かい家庭で育った私は、幼稚園の頃からピアノ、バレエを習う、歌やお絵かきが好きな子でした。

母は、団地内の同じ年頃の子どものママたちと、しょっちゅう行き来してお茶飲んだりしてました。
お客さんが来てる時、リビングに紅茶の香りが漂って、その雰囲気がとても好きでしたね。

幼稚園の卒園のアルバムに書いた将来の夢は「かしゅ」でした。
その頃から、人見知りでおとなしくはあったのですけどね。

相模原市の大きな団地に住んでいて、近所には同世代の子供たちがいっぱい。
(第二次ベビーブームの頃ですね^^)

毎日、遅くまで近所の友達と外で遊んだ幼少の頃は、ほぼ楽しい記憶しかないくらい!

初恋と言えるか分からないけど、幼稚園の時には気になる男の子がいて、
小学1年生くらいの時には、テレビで見た、ウェストサイドストーリーの映画のラストで泣いているちょっとませた子どもだったかも知れません。

幼稚園ではおとなしくて、幼稚園に行くのがあんまり好きではなかった私は、園の門の前でいつも泣いていました。
ある日、送ってきた母が帰った後も泣き続けていたら先生に
「そんなに泣くなら帰りなさい」
と言われ、本当にそのまま家に帰ってしまったことがあります。

先生は焦りまくって家に電話をかけてきて、玄関で泣いている私と、電話で先生と話している母の姿が光景として記憶に残っています。

団地

葛藤を抱えた優等生

小学校3年生の時に、相模原市の団地から今住んでいる家に引っ越してきました。

念願だったワンちゃんも飼うことが出来ました。
小学生の私は、漫画を描くことと、犬に夢中。
ピアノも続けていて、好きではあったのですが、あんまり練習熱心ではなかった^^;

開発住宅地だった家の近所には、やっぱり同世代の子どもたちがたくさんいました。

引っ越した当時、近所に同じクラスの女の子が2人いて、しかもその2人が、お母さん同士も本人同士も超絶仲が悪い!お互い口も利かないし、目も合わせない。同じクラスなのに…
(お母さん同士が仲悪いからそうなったのかな、、、?)

アイドルの好みも、わざとなのか偶然なのか、片方は聖子ちゃん派、もう片方は明菜ちゃん派でしたw
(歳がバレますね汗)

ちなみにその頃、私はマッチ(近藤真彦)派でした笑
女性では聖子ちゃんが好きで、今でも当時の聖子ちゃんの歌は、アルバム曲までほとんど歌えます!
(誰かカラオケに付き合ってくださいw)

転入生の私は、そんな個性の強い2人それぞれと仲良しで、もめることも無く、うまく付き合っていました。
そういえば、団地に住んでいた頃も、他の誰とも遊ばない子が近所に2人いたのですが、私だけはその2人とも、それぞれと仲良く遊んでいて、、、意外とそういう面があるみたいです、私。

でもね、でも、、、
心の中で、何かいつも孤独を感じていたんです。

友達もいて、家庭も明るくて、健康で…
(ちょっと運動神経は悪かったけど^^;)
何も不自由はないはずなのに

何故だか分からない、うまく言い表せないけど自分に自信が持てない
自意識過剰だったのかも知れません

その心の影は中学、高校とひそかに私の心のすきまにはさまったままでした。

小学校高学年の頃は図書室で本を読むのが好きで、昼休みは大体、図書室に行きました。
クラスの他の子達はほとんど、校庭でドッジボールをしてたんですけど。

当時の担任の先生が「クラスの和」を異常に大切にする人で、ある日ばったり図書室の廊下で出会った私は、「どうしてみんなとドッジボールをしないのか」と叱られた(先生は叱ったつもりじゃなかったのかも知れませんが)のが、とてもショックで1人泣いてしまったのを覚えています。

小学校の図書室

小学校高学年くらいから、私、成績が良かったんです。
で、母が英語の先生だったものですから、小学校のだいぶ早くから英語は勉強してて、中学生になって教科に英語が登場してからは、ほとんど学年トップか2位とか。

他の教科を合わせても、毎回テストでは10番以内に入るくらいの成績でした。
勉強は嫌いじゃなかったけど、熱心にやった記憶はあんまり無いんですけど…

当然、他の子からは優等生と見られて、なんだかそれが嫌だった

元々、活発なグループにいるタイプじゃなかったのですが、そんな自分も嫌でした。
それでバレー部やバスケ部なんかの、クラスの中心的な、活発な子たちと仲良くなろうとして、一緒に授業を抜け出してみたり、無理して笑いをとってみたり(全然そんなタイプじゃないのに!)

そんなこともしながら、中学生時代を過ごしました。
心の中に悩みはあったけど、今思い返してみると、楽しい中学時代でした。

休みの日には、友達と電車に乗って服や雑貨を買いに行ったり、映画を観に行ったり、すごく大きなパフェを食べたり、原宿まで行ってクレープを食べたり…

そういえば、ピアスを開けたのもこの時期、原宿のピアスセンターってところで開けました。
(知ってる人、いないかなー)

竹下通り

その頃から、みんながあまり聞いてないような音楽に興味を持つようになりました。

中学生になって最初の頃は吉川晃司とかチェッカーズだったのが、中2になる頃には、まだそれほどには知られてなかった尾崎豊がいちばん好きでした。
自分が隠し持ってた孤独感にピッタリハマった感じでした。
(でも高校生になった頃、みんなが「尾崎、尾崎」って騒ぎ始めるようになってから、少しつまらなくなっちゃって…今でも好きなんですけどね!)

洋楽を聴くようになったのは、洋楽好きな友達の影響。
その頃は、デビッド・ボウイが好きだったかな…

そして成績優秀だった私は学区内ではトップの進学校に進学しました。
さすがに、その中ではトップ10位というわけにはいかず、、、笑

部活は最初、中学生の時の続きでバドミントン部に入ったものの、小学校からの友達に「映画研究同好会」に誘われて、そっちに移行しました。
そこでは、熱心な先輩が中心になって、演劇部の子を使って映画を撮影し、コンクール的なものに応募して何か小さな賞をもらいました。

そして、高1の時に同じクラスのS君ととても気が合って、告白されて付き合うことになりました。
S君はおとなしめで優しくて、ジブリと長渕剛が好きな、ギターを弾く男の子でした。

その頃までの長渕剛のレコードを全部貸してくれて、全部いっぱい聞いたので、昔の長渕剛の曲もけっこう私、知ってます^^;

レコード

高校時代の前半はそんな感じで、まあ良かったんです。

でも、途中から私の心の影が少しずつ大きくなってきて…

私は、謎の劣等感に苦しめられました。

自己嫌悪、自己否定、、、
今から思うと、特に太っていたわけではなかったけど、自分の太ももが太いのが許せなくてご飯を減らしました。

お弁当はおかずだけ、そのうちおかずもほんの一口くらい、
ダイエットもだんだんエスカレートしていき、

体重は減っていきました。
でも、心は休まらなかった。
自分がダメでどうしょうもなく思えて。

S君には自分からお別れしました。
何だか私と付き合ってるなんて、申し訳ない気持ちでいっぱいになって…

S君は意味がわからずショックを受けてたけど

それから体重はどんどん減って、とうとう30キロ台。
でも、昨日より体重が増えることは許せなくて食べれない。

生理は止まって、お医者さんに
「このままでは子どもが産めなくなる」
と言われていました。

元々心配性の母には、その頃からだいぶ心労をかけたみたいです。
私は病院に連れて行かれて入院。
そこには同じようにガリガリの、摂食障害の女の子が数人いました。

みんな、みたらし団子一粒分くらいのおにぎりを食べることができず、すごく苦しんでいて…
今から思うとバカみたいだけど、その時は真剣に無理だった。

入院しながらも、やっぱり体重が増えることに抵抗があって、病院内の階段を上がったり降りたりして、何とかカロリーを消費しようとしていました。

でも、その頃、筋肉が全くなくなってしまっていたので、階段上がるだけでも手すりを使わないと無理な状態でした。

青空

基準の体重をクリアして、2ヶ月くらいで退院しましたが、摂食障害は単純なものではなく、普通になるには何ヶ月、完治には何年もかかってしまったのです。

自由

地元ではいちばんの進学校に通っていた私は、英語が好きだったから、当初、青山学院大学の英文科が志望校だったけど、高3の受験の時期になっても私は立ち直れなくて、最終的に新宿にある外語専門学校に進路を決めました。

でも、まだぼんやりしていた私は専門学校も通いきれず、中退。
しばらく家で過ごしていたのです。

その後、私の人生は動き出すことになります。
最初は、近所のスーパーのテナントの和服屋でした。

20歳の振袖の営業に来た販売職のおばさんが、家にいる私に
「レジ係がいないから来ない?」
と言ってくれて、私はそこで営業事務の仕事をすることになりました。

店舗の事務作業と販売補助。
それまで、マクドナルドでバイトしたことはあったけど、正社員として働くのははじめてでした。

和服屋チェーンの小さな店舗だったので、職員は販売職のおばさん達と30代の男性店長、20代の営業社員の男の子だけで、和気あいあいとした雰囲気の中でのんびり仕事していたのですが。

その頃、そのスーパーにアパレルの催事業者として、時々来ていた3つ年上の男性とよくお喋りするようになり、何度か来るうちに、飲みに行くようになりました。

そして20歳の成人式の少し前くらいの頃、私は家を出て都内のその男性の実家に住み、男性がそのお父さんとやっているアパレル販売の仕事を手伝うようになりました。

ハンガー

店舗を持たない催事業者で、毎週違う場所に商品を持っていき、1週間場所を借りて販売する。
スーパーの店頭だったり、駅の一部であったり、、、

搬出・搬入と、店頭の外での販売。
1人で1つの売り場を持つ事が多かったので、夜まで休憩もなかなか取れなかったり、まあまあハードな労働条件だったと思います。

それまで、全くお嬢さんで、仕事なんてろくにやったことなかった私ですが、そこでの約2年でかなり鍛えられました。

お父さんも彼も優しかったけど、1人で店頭にいる時は頼る人はいなかったから。
お陰で見知らぬ人に声をかける事ができるようになったし、
「いらっしゃいませ」
を抵抗なく言えるようになり、販売もちょっと上手になったんですよ!
お客さんの力になれることに、心から喜びを感じることができるようにもなっていました。

最初、彼の実家にいたけどそのうち、アパートで2人で住むようになり、新宿、池袋と移りました。
その頃から、だんだん彼が、2人で行く売り場の時、私に頼って仕事に出なくなってきていました。

朝起きない彼に
「後から来てね」
といい残して仕事に行き、1人で売り場を作って。

待てど暮らせど、彼は来なくて…

とうとう夜まで1人で売って、帰ってみると彼が家でまだゴロゴロしていた。
または、友達と飲みに行ってて居なかったり。

そんなことがだんだん多くなって、我慢できなくなった私は彼のところを出て、お父さんに話して仕事も辞めました。

沖縄にどうしても行きたい

石垣島

販売の仕事に少し自信を持った私は、その後も販売の仕事をいくつかバイトでやっていました。
その間に、派遣に登録して経理事務の仕事をしたこともあったけど、これはダメ!

地味に計算する仕事はどうも性に合わないみたいで(^_^;)

電卓で計算してるのに、計算するたびに違う結果…
ミスが多くて、嫌味なおじさん社員にからかわれたりして、、、

私が正社員でなくて、バイトや派遣ばかりやっていたのは、実は理由がありました。

20歳の頃、東京でできた友達と2泊3日のツアーで沖縄に行った事があったのです。

その時に声をかけてきた(若い女の子2人だったからね^^)運送会社の社長が、名護のステーキハウスに連れていってくれたり、現地のいろいろなところに連れていってくれました。

その時、ディープな地元に触れて、沖縄が大大大好きになってしまった私は、帰ってからもずっと
「沖縄に住みたい!!」
と思っていたので、何となく沖縄のバイトを探していたのです。

リゾートバイトをチェックしていた私は、何をどう間違えたのか、沖縄じゃなくて長野県の大町にあるイタリアンレストランの住み込みバイトに決まってしまいました。

せっかく採用されたし、、1シーズンだけ行ってみるか!と思い、特急あずさに乗って長野県へ。
住み込みだったし、持っていったのはアコギ1本だけでした。
春の季節だったけど、まだ雪だらけで寒かったー…

そこは30代(40代?)のシェフと通いのキッチンのイケメン1人と、もう1人、通いで来てるちょっと年上の女性がいました。

シェフはワイン好きで、よく店を閉めてから、お店のワインを開けてみんなに飲ませてくれました。
でも、2人は通いだったから、夜になるとシェフと私だけ。

もちろん、店の2階に部屋はちゃんと用意されていたけど、だんだん月日が経つうちに、シェフが店の仕事と違うことを要求してくるようになってきていて…

いつもはぐらかしたり逃げたりしてたけど、ちょっと危険を感じた私は、通いの女性に相談して、3ヶ月経った頃、辞めて帰ることにしました。

家に戻っていた私は地元の写真屋とファミレスでバイトを掛け持ちしていました。

バイト先の写真屋でカメラマンとして働いていたのが、現在の旦那です。
要領が悪くてはっきりしないし、いまいち冴えない人だと思っていたけど、写真のセンスが好きだったし、気楽だった。

一緒に映画を観に行ったのをきっかけに付き合うようになって、彼の(お父さんの)車であちこち行きました。
多くは長野方面の温泉とか、伊豆方面。
これは私が海が好きだったから。

それともう一つ、東京の狛江にいるガラス作家さんのお手伝いをしていました。

グラフィックデザインの勉強をしていたのですが、ある日、東急ハンズのステンドグラス講座を思いつきで受けてみたら、その先生が手伝う人を探していて…

「やります、やります!やらせてください!」
迷いもなく、お願いしました。

というのも、ガラスに魅力を感じていたけど、普通に教室に通うにはお金が無かったので、手伝いをする代わりに、学ばせてもらえるということだったから。

こういう時は、私、本当迷いなくパッと行動するのです。

先生はデパートで作品のコーナーも持っていたから、催事の時など、私の販売の経験を喜んでもらえました。

そして、2年ほど経った時、沖縄県八重山の離島で、島の”案内所のスタッフ”というバイトを見つけました。
住み込み、食事付き!
これだ!と思って即電話。

「バイト募集の広告を見ました」
とちょっと緊張しながら言うと
おじいさんが出てのんびりした声で、
「いいよ、まず来てごらん」

そして、私は飛行機の片道チケットを取って石垣島へ。
そこからフェリーに乗ってさらに離島に行きました。

母には、いつでも決まってからの事後報告。
「えー?!大丈夫なの?やめなさい」
「でも、もう決まっちゃったから…」
心配性の母に相談すると、反対されるのは分かりきってるから、いつでも事後報告なのです^^;

何度も、たくさん心配をかけました。
いまだに、ですが。
ごめんなさい、、、

念願の沖縄、離島暮らし。
仕事は港にある案内所で、もう1人、大阪から来ているお姉さんと2人でした。

観光客に自転車のレンタル案内をするというのが主な仕事ですが、ほとんどが、島の独身男性が時々おしゃべりに来る、といった毎日でしたw

夜は宴会に呼ばれて、オリオンビールと島酒(泡盛)。
この頃、かなりお酒も鍛えられた、、、!

その島では、サトウキビの植え付けからキビ刈りまで一通りの作業を手伝ったり、漁りいざりといって、夜中、大潮の干潮時にリーフの際まで歩いて、残されている貝やタコなどを獲ったり、釣り、島のおばあと島藍染や、アーサ(青さ)採りに行ったり、いろいろなことをしました。

その後、離島を離れて石垣島に4年ほど住むことになるのですが、その前に、実は内地から元彼(今の旦那)が私のことを連れ戻そうと思ったみたいで、訪ねてきたことがありました。

私は、出発前に一応お別れしてきたつもりだったので、全く帰る気はなかったので、1人で帰っていきました。
突然、来られても、ねえ…

石垣島では、ホテルのお土産屋さんでバイトしていたのですが、私と同じように、ナイチャーといって本土からきた若い子たちと一緒に、アクセサリーを作って、道売りしたりもしていました。

中心地の商店街でお店を始めた、千葉から来てる友達夫婦に、ブレスレットを置いてもらっていたのですが、一度、ANAの機内誌の記事に私のブレスが取り上げられて、写真が載ったことがあって、とても嬉しかったです!

そして、私の人生を変える出来事

この石垣島の4年の間に、一緒に暮らすようになっていた元キャンパーで貝細工を作って暮らしている人との間に、子どもが出来たのです。
実は、その人少しクセがあって、何度か別れようとしては、連れ戻されて、、、と繰り返していたところだったのに

まさか…

私、自分が妊娠できるなんて思ってなかった。
だってそれまで全くそんなことなかったから、子どもは無理なのかなと内心思っていたんです。

戸惑ったには戸惑ったのですが、それよりも
「自分にも子どもが出来るんだ」
ということが嬉しくて、その気持ちの方がどちらかというと大きくて…

それから、母にも相談。彼とも話して籍を入れました。
でもその時に、その彼が保険証も持っていないことにびっくりしてしまって。

「貝細工を売ってるだけじゃ全然お金にならないし、こんなんで子どもって育てられるのかな…」
普段は穏やかだけど、ちょっとした口喧嘩で、暴力的になる彼から逃げることばかり考えるようになりました。

そして、その日は突然やってきた。
ちょっとした喧嘩で逆上していた彼をなだめて、
「明日になったら散歩でもしよう」
と言って、彼が眠りについたのを見計らって、朝早く、着のみ着のまま、まだ4ヶ月にならない長男だけ抱いて、空港へ向かってそのまま東京へ。

全くバカな人生を送ってきてる
考え無しですね。。。

シングルマザー

飛行機が東京に着いて外に出て、気づいた!
その日は11月。
着のみ着のまま出てきた私は素足にビーサンという夏向きのいでたち^^;
寒!

先に電話して、空港に迎えにきてもらっていた妹と叔母に、
「売店で靴下買ってきてもらえる?」
と頼んだら、なんと子ども用の小さな靴下を買ってきてくれました…

え…?私のがいるんだけど

実家に戻った私は、しばらく彼が突然来るんじゃ無いかと怯えながら暮らしていたのですが、1年ほどしてやっと話が付き、離婚しました。

その頃は、長男を育てていかなくてはならないと思って、パソコン技能検定を受けて資格を取り、長男を保育所に預けながら、一般事務の仕事をしました。

保育所に泣ききじゃくる子どもを置いて仕事に向かうのは、本当に辛かった、、、

そしてまた1年くらい経ち、私は今の旦那と再会します。

「当時から写真屋辞めたいって言ってたのに、まだ居たんだ…」
最初に思ったのはそんなことでした。

最初、私は子どものこと、なんとなく言えなかった。

そして、何回か会ううちにとうとう私は打ち明けました。
本当に私、何かを隠しておくということが出来ない性格で…

旦那はびっくりしてはいたけど、
「今度、一緒に遊びに行こう」
と言ってくれて。

それから何度も、長男を連れて公園や動物園なんかに3人で遊びに行くようになって、長男も懐いていました。

私は、、、

心のどこかで、
「子どもにはお父さん、いた方がいいよな」
「女が1人で子ども育てるのは、やっぱり大変だよね」

「一応、定収入のある人だし…」
こんなことも考えたと思います。

ひどいような気がしますが…
子どもを安定した環境で育てられるなら、、、

これが本音だったような気がします。
今思えば。

それから、再婚。
長男は物心つかない頃だったので、ずっと後まで本当の父親だと思っていました。

再婚して、すぐにでも子どもが欲しかった。
何か旦那に負い目のようなものを感じていたのか、
下の子が出来れば、旦那に報いることができるような気がしていました。

でも、なかなか出来なくて長女が生まれたのは3年後でした。

それから2年して次男、その1年半後には次女が生まれました。
子供が出来ないと思っていたのに、そうでもなかったですね…^^;

でも、その度に喜びが大きくて、私は幸せでした!
毎日バタバタ大変だったけどね!

子育て、そして動画クリエイターへの道

その後しばらくは、贅沢は当然出来ないけど、なんとか安定して生活してました。
子育てが落ち着いて、私がもっと働けるようになれば、、、

そんなふうにぼんやり考えながら、週2回くらいのパートを続けていました。

もうすぐ春休みというある日、学校から電話。

小学校2年生の長女が、学校で嘔吐してしまったので、迎えに来れますか?
という電話でした。

迎えに行くと、長女が保健室でお腹を抱えて待っていました。

お腹が痛いと言って、嘔吐してしまったそうで、車に乗ってからも、家に着いても、繰り返してしまいます。

内科に連れて行くと
「嘔吐を繰り返して脱水の危険があるので入院して点滴しましょう」
と言われ、そのまま市内の日赤病院に入院となりました。

1人で泊まれないと泣くので、長男と下の2人を実家の母に頼み、私も付き添って泊まりました。
検査の結果は、胃腸炎でもなく、身体的な異常は見つからず、精神的なものという結果です。

それから約2年半くらい、長女の入退院が続きます。
付き添って泊まっていたので、入院中はパートも病院から通っていました。

でも退院して、学校に行くとすぐにまた症状が出て、迎えに行かなければならず。
私のパートは、急な欠勤や早退があんまり多いので、続けることができなくなりました。

私はその頃から、自宅で仕事をすることを本格的に考えました。

それより前から、ハンドメイドの雑貨や、人形の服などをminne(ハンドメイドの販売サイト)で売ったりしていたので、その方向で広げられないかとも考えていました。

ネットでいろいろな情報を見かけ、
「これならできるかも」
と、主に資金がかからないようなネットビジネスを試してみました。

アフィリエイト、アドセンス、、、

アドセンスの教材を2万円で購入した以外は、ほとんど独学。
当然、結果は散々で…

そして、長男が高校受験の時、写真屋でカメラマンを続けていた旦那が
「もう、我慢できない。辞める」
と言い出しました。

私は、「仕事は自由だけど、月20万は最低必要だから必ず確保してね」
と言ったのですが。

数日してすぐに「辞めてきた」
と報告してきました。

冗談かとも思いましたが、どうやら本当のことみたいでした。
20年以上も働いてきて、何を今さら我慢できなくなったのか、、、

とにかく、何も話をしてくれない人なので今も分かりません。

フリーランスでカメラをやろうと考えていたのだと思いますが、なんの準備もしていないのだから、当然翌月からは収入はありませんでした。

辞めた写真屋が忙しい時はアルバイトとして、単発で入ってたのでその翌月は数万円。

元々、貯金なんて出来るような経済状況ではなかったので、生活費は私のクレジットカードでほぼ補うような形になりました。

長男はその頃、不登校気味でしたが、高校には進学する意思があったので塾には通わせていました。
その塾代も、毎月の給料が無くなったので私のクレジットカードで支払いを続けていました。

1、2ヶ月は仕方ない。
いくらなんでも、来月こそどうにか収入を作ってくれるだろう。

それが、3ヶ月、4ヶ月、、、

一向に仕事が増える気配がなく、かといってどこかに就職する動きも見られませんでした。

このままではまずいからと訴えて、渋々アルバイトを始めてくれましたが、、、

早朝の新聞配達を始めましたが、雨の日バイクで転んだらしくて、1週間で辞めてしまいました。
その後、倉庫のアルバイトを始めましたが、目一杯やっても月17万円くらいなのに、週3くらいしかしていなかったので、生活できるような金額にはならなかった。

長女の入退院は、だんだん落ち着いてきましたが、学校には行けず、私はパートになかなか戻れなかったので、私のクレジットカードが一つ、また一つと限度額に達してしまい、生命保険を解約したりして、なんとか食い繋いでいる感じでした。

ローンは遅れがちになっていき、国民健康保険税や年金も支払いが難しくなっていき、不動産の差し押さえ通知が来て、その時は仕方なく旦那のご両親の力を借りました。

お義母さんは当然、息子の肩を持ちますから、その時は、「給料の範囲でなんとかしないと」とか「まりちゃんはどこかに働きに出ないの?」と言ってましたが、
自分の息子が会社を辞めたことには、
「前から大変そうだったから良かったじゃない」の一言でした。

え?私のせい?

そんな思いが渦まきましたが、仕方ない。
「はい、すみません」
と、答えるしかなかった。

子持ちの私との結婚を許してくれたんだし、、、

私は、なんとかネットで収入を得られるようになろうと焦りまくってました。
クラウドワークスに登録して、ライティングの仕事を受注しながら、
ネット上の気になる情報は、すぐメルマガ登録したり、コンタクトを取ってみたり。

詳細を聞いてみると、明らかに怪しい案件もいくつかありました。
「これが、いわゆる詐欺案件ってやつかなー」
「私は騙されないぞー」

そんなふうに思っていました。


そして、ブログアフィリエイトを無料で教えてくれる女性と出会い、無料ブログを作って教えられる通りに進めていたところ、その人に、
「もっと早くて、健康にもなれるビジネスがある。ブログよりすぐに収入になるし、私は事情があって出来ないけど、良かったら話聞いてみる?」

「お願いします」

そして、別の女性からメールが来て、
「ちょうど、ウェビナーがあるから参加してみてね」
と言われ、zoomのリンクを渡されました。

お察しの通り、そう!
結果、それはネットワークビジネスだったのですが、その頃、ネットワークビジネスに免疫のなかった私は、「へー!そんないい商品があるんだ…。でも高っ!会員ならこの値段で買えるんだね。」

説明会ではしきりに
「これはネットワークビジネスじゃありません。仕組みが全然違うんです」

なるほど、ア○ウェイとかじゃないんだね。うんうん、ならいいじゃん」
そのくらいの考えでした。

話を聞いてると、簡単に紹介が出せるような気がしたし、キャンペーンで登録が5000円のところ、今なら100円!
じゃ、急がなきゃ。

なになに?
最初に最低7000円分購入しなきゃいけないの?今お金ないな…
でも、1人紹介すれば元取れそう…
最初の投資は仕方ないか

「月末でもいいですか?」

と、いとも簡単に入会を決めてしまいましたとさ。

それから、届いた商品を見て、旦那は
「ア○ウェイかよ」
と、すごい表情で言い放ち、、、

あからさまに言われてつい、
「違うよ!これは」と否定しました。

友達には、2人くらい、信用おける子だけにチラッと話したけど、やんわりと断られ、
結局、自分の親が少し協力して買ってくれただけでした。

でも、不思議なことにネットワークビジネスがネットワークビジネスを呼ぶというか、
他のMLMの勧誘に次々と出会い、1年以上、その界隈を彷徨うことになりました。

「これは、ネットワークビジネスじゃない、全く仕組みが違うの」
たいてい、こう言われて
「まずは、説明会があるから参加してみて」

こういうのは、ほぼネットワークビジネスだと考えて間違い無いですね。
今ははっきりそう言えます(^^;;

そうやって、私もMLM数社の洗礼を受けながら、立派なノウハウコレクターにもなっていきました、、、

その間に、ハンドメイド雑貨販売も細々とやっていて(自己流ですが)、SNSを使ったり、BASEでショップを開いてみたり、リアルの手作りイベントに出店してみたり。

そのうちに、ホームページを作りませんか?
という営業電話が何度かかかって来て、簡単な、本当に今考えると素人でも作れるようなサイトを4〜5万出して作ってもらいました。

でも、なんだかデザインがしっくり来なくて、自分で作ったらどうかと考え始めました。

パソコンを触るのは、嫌いじゃなかったし、Webデザインには興味があったので。
でも、やっぱり難しそう。専門知識がいるんだろうな、、、

勉強したいな、
しようかな、
調べてみよう!

ちょっと調べてみると、クラウドワークスでも単価の安いライティングよりも、Webデザインの方が収入になりそうだし、仕事が受注できれば、受講代は元が取れそう

そして、仕事を実践しながら学べる!というタイプのスクールでWebデザインの基礎を学び、
(仕事は結局自分で受注しなきゃならなかったので、アドバイスはしてくれても、実績がないから、なかなか取れなかったです汗)
LPを1人で作ることができるようになり、バナー案件くらいは受注できるようになりました。

学習しながら感じたのは、動画の需要。

動画を取り入れるサイトはどんどん多くなって来てるし、広告も動画が増えている…

そう感じて、Webデザインに加えて、動画を作ることができれば、もっといいなと思って、繋がりのあるスクールで動画編集の基礎を学びました。

お金がなかったから、全て最長の分割払い。
お願いしてできる限り月々が少なくなるようにしてもらいながら…

もちろん、旦那には内緒です。
「金ないのに」って、絶対反対されるから。

でも、もしパートに出ても、せいぜい月数万。
収入の限界は見えてるし、長女のことがあるから長時間は働けない。

私は、デザインと動画で旦那の収入、超えてみせる!
(目標値、かなり低めだけど^^;)
未来は明るい!

と、心の中で思ってました。

そして、受講しながら、クラウドワークスやランサーズで、自分ができそうな案件にはバシバシ応募しまくって、なんとか受注できたのは、1本3000円のYouTube編集の仕事と、100円/本のテロップ入れの仕事でした。

講師の方はいい人で、仕事をしてわからないことに出会うと、質問したら親身になって教えてくれました。
その時考えていたことは、
「自分もそのうち人に教えるときは、誠心誠意、心を込めて向き合おう」
ということでした。

その頃から、将来的には教える側になりたいと考えてはいたのです。

流石に、単価100円の仕事はテロップだけとはいえ、10分くらいあったので途中でやめましたが、3000円の編集案件は、クライアントもずいぶん私のことを評価してくれて、安定してお仕事をくれました。

でも、なんせ3000円…。
割と凝った編集をしていたし、尺も7分以上あるものがほとんどだったので、時給にすると、、、汗

続けているうちには、1本7000〜8000円の案件も単発的に受注できるようになってきました。

案件の中で、指示の細かいクライアントさんもいて、その時にはアニメーションの付け方も研究したので、1本20000円という案件も受注できるようになっていきました。

こんなに、浅はかで失敗ばかりしていた私ですが、少しずつ単価を上げていくことに成功したのです。
諦めないこと、
うまくいかない時は、どうすればうまくいくかを考えること

そして、何より自分の未来を信じることです!
信じることで、道は見えてくると思います。
これまで私に出来たのは、ただそれだけだったと思います。

この長い長い記事にお付き合いくださって、本当にありがとうございます。

これからは、過去の私のように苦しい立場で悩んでいる人、迷っている人、勇気を出せずにいる人の力になっていきたいです。

よろしくお願いします!

タイトルとURLをコピーしました